印象と感覚
動物と人間の違いは
ひとまず置いておこう
生物学もまだまだ発展途上だから
動物の中の理性
(この場合は知性かな)
については
分かっていない部分が多そうだからね
それに ぼくが知りたいのは
人間についてなんだ
(人間について知りたいっていうのも
違うかもしれないな
なんといっても興味があるのは
ぼくについてだけだから)
ここまで書いてきた
感性・悟性・理性を
もう一度整理してみるね
1700年代のイギリス経験主義哲学者に
ヒュームさんって人がいる
この人の悟性・感性に対する検証は
けっこうおもしろいから
これを参考にしてみようと思うんだ
感性・悟性の仕事は外部情報の入力
この入力される外部からの情報を
ヒュームさんは
『印象』って呼び方をした
印象というと何かの刺激に対する
反応とか感想みたいに思えるけど
ヒュームさんの捉え方は
外部から入ってくる
刺激(情報だね)ってものが
『印象』そのものだとしたんだ
その『印象』が
人間の持っている『観念』を刺激しちゃう
『観念』ってものが
情報に対する反応だってことだよね
哲学者って言葉をこねくり回すよね
わかりにくくなるけど
単純に言えば
感性・悟性がキャッチした
情報を『印象』
その情報を解析した
(刺激を受けるってこと)
結果が『観念』って感じかな
単純に『情報』と『反応』ってことで
いいように思うけど
理性の働き
ヒュームさんなんかが
唐突に出てきてしまったけど
もう少し我慢してね
正確な用語を使うと訳が分からなくなるから
ぼく流で書いちゃうよ
だから軽く流してもらいたいな
(本気で気になる人はヒュームさんを調べてみて)
ヒュームさんが主張したのは
人間ってものはどうやって物事を認識しているのか?
ってことなんだと思うんだ
人間が考えるってことは
(ヒュームさんは知覚って言っているね)
分けられるってことらしい
『印象』と『観念』もまた
どちらも単純なものと複合的なものとがあるって主張した
そう目新しい考えじゃないよね
『印象』の単純なものって
『感性』のことで
『印象』の複合的なものといえば
『悟性』で良いような気がする
『観念』の単純なものは
『理性』の自動制御装置
ってことでいいと思うんだ
ここで 問題になるのは
複合的な『観念』 言い換えれば
『理性』の複合的なものってなんだ? ってこと
これを探しているんだけど
ひとまず先に進んでみるね
ヒュームさん
すべての『観念』は『印象』から生じ
『印象』は『観念』の源泉になるけど
『観念』から『印象』は生じないって
主張しているんだ
この『観念』から『印象』は
生じないって部分には
すこし疑問符が残るけど続けてみようか
認識論
人間の考えるって行為は
『観念』ってことだね
だったら『観念』っていうものは
どうやって生まれるんだろう
まず外から入ってくる
情報(印象だね)が
人間の感覚を刺激しちゃう
その刺激を
人間はデータとして記憶するってこと
印象は時々刻々と入力されては消えていく
だけど 印象が消えた後でも
刺激というデータは残るってことだね
この記憶に残るデータのことを
『観念』って言うそうだ
人間の中には
この感覚の刺激で生まれたものが
『観念』として蓄積していくってこと
人間はこの蓄積された『観念』を
分類したり結合させることによって
知識として蓄えるんだそうだ
そして 新たに入ってくる『印象』を
この『観念』の集積体によって判断するって
結論付けたんだよね
さすがは経験論主義者らしい
結論付けだと思わないかな
この『印象』と『観念』が
人間の思考の仕組みだとすると
おもしろい結論が出ちゃう
『因果関係』ってあるじゃない
原因があって結果が来るってやつ
『観念』っていうのは
過去の感覚(経験)の集積だよね
この『因果関係』っていうのは
人が体験して理解したものを繋ぎ合わせて
人間が勝手に作り上げているものじゃないか?
って言いだした
人間は外部で起こっている物事を
印象で入力して観念で判断している
言い換えれば原因と結果を
経験に基づいて推測しているだけで
実際には世界ってものに
『因果関係』なんてものは無い
そう 主張しちゃったんだね
人間の科学なんて
経験上の思い込みを絶対化してるに過ぎない
ってことも言っているんだよ